昭和五十四年六月十二日 朝の御理解 御理解 第三十七節 「生きて居る間は修行中ぢゃ丁度学者が年をとっても眼鏡をか けて本をよむようなものであろうぞい」 一生かけての修行ということ。先日頂いた、ご理解の中に、一切が修行と受け取れれるようになって、初めて一切が神愛ということがわかる、ね。
話を聞けば成程、「神様のお働きには氏子幸せにせずにはおかんという働きだけしかない。」ということを、いろんな角度から頂きますわけですから、成程、神愛だけだとわかります。けれども、わかっただけで、やはり実感がそこにないかぎり、頂いておるとは言へません。
そこで、いっさい修行と。もうこれは、よいことわるいこと、おもしろいことおもしろくないこと、もう総てを、言うなら修行ということを、くるしいことと言ったようなものではないのですね。
私は、ここ辺の修行に対する一つのイメージのようなものが皆、「修行とは苦しいことだ。」と、こう言っておるけれども、金光教の信心はそうぢゃない。それこそ、「日に日に生きるが信心」と仰せれるように、もう日に日に生きていくということ、ね。「その中に生きていく事その事が修行なんだ。」と、言うのです。ね。だから生きていくその事の中には、面白いこともありゃ嬉しいこともある。
たまには、悲しい事もありゃ苦しい事もあるんですけれども、それ一切が神愛だとわかる時に、悲しいけれども苦しいけれども有難いと、いうことになる、ね。
ここに、学者が眼鏡をかけて、それこそ年をとっても、やはり勉強を続けるようなものだ。身に学問がついていく、学徳が身についていく事が楽しいんです。読むなと言われても、読まずにおれないというのが、そうだとこう思うのです。信心もそうです。もう、いい加減にしとけ、と、たとえ言われても、いい加減にできない。信心の徳が身についていく事が、段々感じられるようになると思う。
その前提としてですね、やはり修行ということ、もう、どういう事にでも修行が伴なわないはずがないわけですけれども、その修行が楽しうなり有難うなり、ということになる、ね。しかも、リズムに乗っての修行、ということにならなければ、有難い、ということになりません。初めて、「一切が神愛だ」と、いうことを身をもって自分の心から実感として、一切が神愛、と、頂けるようになってくるということ、ね。
私は、昨日の、熊本の松村さんのお知らせを、昨日一日その事を思わせて頂いた、ね。
大きな食用蛙をね、ね、料理しようとしておる。したら、その、食用蛙が人間の言葉で、「どうぞ助けてくれ、助けてくれ。」と、こう言う。「その代わりに、山椒魚をさしあげます。」と、言うた。
というお知らせです。もう、まさしく、合楽に縁を頂いておる者でなからなければ、頂けないご神夢だと私は頂きました。合楽以外の人にはわからんのです。食用蛙とか、ね。ガマとかカエルとか、と言うのがどういう意味から言うのをわからんでしょうが、私は、もう、この世で一番怖いのはカエルが一番怖い、と、いつもお話しすように、だから合楽にご縁を頂いた人でなからにゃわからない。
わかりやすく神様がね、私共の行く手にはです、ね。いやな事もあろます。「もう、あの人の面見るともいや。」と、いう人も中にはあります。人間でも、問題でもそうです。いやな問題もあります。
ね。けれどもね、嫌いとか、いやだ、とか、ね。もう、怖いとか、と思うこと、そのものをです、生かしていってくれよ、もうそこで食用蛙。
「食べてしまうような事をせずに、それを生かせ。」と、ね。言うなら、その難儀なら難儀、あなたが怖いと思うておること、いやだと思うておる事、ね、それをです、それを生かしていけ、と、こう言うのです。「日に日に生きるが信心」という、その信心の中には、そういう事もあるのです。「もう、いやなものはいや、嫌いなものはきらい。」と、つみ切ったような考え方は捨てて、私共の行く手にどういう問題が例えばあっても、その問題が困難な問題であり、いやな問題であり、それこそどうなるだろうか、と、不安を感ずるような問題であればある程にです、その問題を本気で四つに取り組んで、それを生かしていく、と言うこと。そこに「その代わりに山椒魚をさしあげます。」という、お徳が受けられる。ね。えヽですか、今日私が皆さんに聞いて頂いておるその「一生が修行」とこういう。
その修行と言うのはね、もう、私共が一生、ということは、一切が、ということ。私共の、日に日に生きる、その事自体が修行なのだ、と。ね。
修行なんです。その一切が修行である、という受け方が出来る時にです、なら、その一切の中にです、怖いことがあったり、嫌いな事があったり、いやな、ということもあるんですけれども、それを一切を修行として受けていくことが、その問題を生かしていくことになる。
その難儀のおかげで徳を受けた力を受けた、こういうおかげを受けられたということになるのです。ですから、皆さん本当に、もうそれはね、美味しいものを食べるでも、美味しくないものを食べるでも、一切修行です。テレビを見とっても修行なんです、お芝居みとっても修行です。一切が修行、だから修行というものが私共の心の中にしみこんどらなければいけないね。ですから今度は、楽なとか面白い修行ばっかりはない。嫌いだとか怖いとか思うこともありますけれども、その、怖いと思えば思うほど、それを本気で四つにジッと取り組んでみますとね、 私は、その今、ガマが一番怖い、と、もう突差に、私は一遍椛目のお広前の時分に、もうお広前終わってから、奉仕着を脱いで庭のところに、やれやれと思ってちょっとお縁に出たとたんに向こうからやって来たんです。もう私は、どんなにして、ひっくり返ってお広前さえ転がって行ったか分からなかった。もうそれが変な声を出したらしいから、「どうしたかどうしたか」と、皆がやって来たんですけれどもね。そこに小さいガマの子がおったです。
皆から笑われた事でございましたけど。
と言うて、なら、山本の近藤さんというところに、前お話に行きよりましたがね、今おられませんけど、そこに大きな、から泉水があるんです。もう、から泉水の中の主のことしてですね。もうそれこそ、重箱のごと大きか。一尺真角ぐらいな大きなガマがおった。
その中に水がないもんですから、上がられんでそこにおるんです。
だから、あそこに行くと、私はお縁からジッと見とるんです。こちらが腹決めとると怖くないです、不思議に。腹決めとらん時にピヨンと飛んでくるならね、私は小さい青蛙でもアッと声出すぐらいびっくりするです。けれどもね、こちらが腹を決めてジッと見よると仲々可愛いし、顔しとるです。あの、目えなんかね、わくど(笑い)問題はこちらが腹が出来とりや、そげん、こぶりついたりするとぢゃなかですからね。何とはなしに虫が怖いとですから、好かんとですからね。
けども、それを生かしていくことなんです、信心とはね。だからなら、どうなるだろうか、と、思うような問題がおこっても、その問題と本気で四つに取り組んで見てごらんなさい。「はあ、これは神愛、これで、私に力を下さろうとする神様の働きだな、これで一徳受けよう。」と、はまるとね、怖い問題が怖くなくなってくるです、ね、生かすわけです。だから、そういう様々な嫌な問題も、怖い問題もあって、また有難いのです。そして、初めて神愛という、ね。それも、それを一生続けていこう、とこう言う。
昨日は、総代さん方と一緒に熊本の荒尾に参りました。このお建築につかいます集成材、今はもう、本当に素晴らしいものが出来ますですね。もう、檜であろうが杉の柾であろうが、もう一見一つも変わらない中にかたい木を入れて、そして、うす板のようなもの、それをずーっと、工場を見学させて頂きましたけども、それをはっていくわけです、ね。
そりゃもう、本当に素晴らしい、ね。事務所で、ある人がこの集成材の、「あなたの話を聞いとるとよかばっかりですけれども、欠点と言うたらどういうところですか。」と、質問しとりました。
集成材はこんなに素晴らしい、こんなにもいいんだ、と、言う話ばっかりですからね。私は、それを聞かせて頂きよってから思うたが、「ハハァーあがしこ十なら十よかごと言いなさるけんで半分位よかろうけんど、半分位欠点があるだろう。」と、そんなふうに思いますね。
私、合楽の話なんかでも、そういうところがありゃせんだろうか、と。私が、ね、「もう、宗教以前の宗教だ、金光教の信心にまさる宗教はない。宗教以前の宗教だ。と、もう金光教こそ、今、合楽で唱えてるそれこそ、「和道十全の道」と、いうのはもう他にはない。
」というふうにです、ね、私がここでくり返し説きましてもね、「あヽ先生があげん言ひよるけど半分ぐらいちゃろうと言いよるか」あるかもしれませよ。
けど、私の場合は、それを言はずにおれませんから言っとるけどそう、と、私は確信して言っとるけど、も、聞く方としてはです、もう、素晴らしいことばっかりだったら、半分ぐらい欠点があるだろう、と、いうような頂き方をするもんですよ。だから本当は、ここでおかげを受けて、なら、ここで私が言うことを、親先生が言うことを実験実証しておかげを頂いて、皆さんが「素晴らしいですよ。」と、言えれるようになった時にほんなもんです。
そして、「私を見て下さい。」と、皆さん一人一人が言われた時に、合楽の大坪が言っていることは、本当だということになるのです。その集成材を本当に使って五年十年ぢゃない、何十年たってみても、やはりこれは一番素晴らしいのは暖冷房に強いということ、くさらない、ということ。ひびが入らないということ。くせがない、ね、集成材は、という、長所だけを聞かせて頂いたですけども、聞きながら私がそれを感じた。
「しいて、欠点は。」と言うて尋ねよんなさったら、その方が言われるのにね、「しいて欠点と言うならば、あまりにもきれいすぎる、という事でしょう。」と言ってます。
例えば、ここの客殿なんかね、あれは六百年もたった杉を使ってあるのです。本当の柱が建っているのです。全部、本当なものばっかりです。高良山杉のですから、板一枚一枚が目が違う柾目がちがうでしょう、柱一本一本がちがうわけです。
ところが集成材を使うと、みんなが同じ柱が建つけん、はあこれは集成材だな、ということがわかる。だから、佐田さん達が言ってました、「これは、いくら何でん、いくらよかったっちゃ美しかったっちゃね、柱だけは本なもんばせにゃいくまい。何倍もするでしょうけどね、値段は、ね、だから、くせったりひびが入ったりしちゃいけないところを、集成材使う方がよかろう。」と、話してましたけれども。私は、その話を聞きながら、合楽でもう完璧の信心へ、合楽理念は完璧だと言われておるわけですけれど、私が言ってるわけですけれども。その完璧であることを皆さんが実験して実証して下さらなければ、私が言うとっても、「やっぱ半分位はほんなこつか知れんばってん。」と、いうことになるかも知れません。そうでしょうが。皆さんも本当と思うたら、本気で実行せにゃおられんとです、大体言うたら、「先生が言いなさることばっかりはなかろう。」と、言わずに思わずに、ここで言うておることだけは、真のことですから、皆さん本気で実験して頂きたい、と、いうふうに思います、ね。
実験をする、そして実証していく。まだ集成材が出来て二十年余りそうですから、なら、五十年も六十年もたった時の結果は、まだ出てないわけです。だから、実際それを本当に何十年間という実験をしてみなければわからん。
ところが、合楽で言う「合楽理念」、所謂,「和道十全の道」と言うのはです、ね、その日その日に実証を感じることが出来るんです、ね。
「一生が修行ぢゃ」と言われます。その「一生が修行ぢゃ、と言うことをわかる。」ということが、「一切が神愛とわかるということだ。」と、今日は聞いて頂いたでしょう、ね。一切が神愛とわかると、怖いこともいやな問題も、むしろそれを尊ばせてもらう、大事にさせてもらう、そういうところをです、合楽では、またの言葉を使うと、「成行を尊ばせてもらおう、成行を大切にさせて頂こう。」と、いうことになるのです。
「成行の中には、様々ないやなことも、よいこともあるけれどもその成行すべてを合掌して受けていく、いやそれを神様の働きとして、尊んで頂こう。」というわけなんです。だから、これを本当に身につけて、初めて教祖が言われる、「一生が修行ぢゃ」と、言われることぢゃないでしょうかね。 「 どうぞ 」